『浮上せよと活字は言う』
2001年5月27日これは今読んでいる途中の活字の本で
橋本治のえ〜と、小説でもエッセイでもなくて
文芸書とでも言えばいいのかな?中央公論社という堅そうな出版社から出ています。
最近図書館に通い初め、活字に慣れてきたので、ふと見つけたタイトルに惹かれて借りてきたんですけど、面白いです。
ちょっとまんがのことが書かれていて
それがもう一度日記を始めるきっかけになったのでした。
なので一番に♪
子供の頃は「マンガなんて読んじゃいけません」って育てられたし、今もそういう意識が根付いている。「最近、本読まなくなった。まんがばっかし・・・」と、よく言う。でも、手放せず読み続ける作品の数々を前にすると、私が読みとった感動は活字の本とそう変わらない。どうしてまんがは活字よりも下にランク付けされてしまうのだろう。
マンガが出てきたとき、それはエライ人達によって「低俗な物」と位置づけされてしまったんだって。
善し悪しの区別を論じることが出来る人達から見放されたマンガだけど、一部でずっと指示され続け、出版社の人が「これは売れる!」と思ったんだね。とにかく「マンガでありさえすればいい」という商戦の元、現在1つのメディアに数えられるまでに増え続けた。
どんな作品がいいかどうかでなく、どんな作品が売れるかどうかで育った分野だから、真面目な物もあるけどそうじゃないものも多いわけだ。
絵が伝える情報が大きい分、あまり考えることなく読めてしまうマンガは深く語られることは無かった。
最近になって一部の作品は多くの人に語られ支持されるようになった。けれどもマンガが世界に顔を出すときは読み捨ての雑誌に連載される。雑誌は作品を選ばせてはくれない。出版社から与えられ、読む。作家だって読者だって、また1人の編集者だって、なんだかベルトコンベアーの上。数以外は発展しないのでした。
それで今も、低俗なメディアのままマンガは溢れているのです。
まぁ、表現方法が違うだけで、今じゃ活字の本だってテレビだって似たような状況にあると思うけどな。
橋本治のえ〜と、小説でもエッセイでもなくて
文芸書とでも言えばいいのかな?中央公論社という堅そうな出版社から出ています。
最近図書館に通い初め、活字に慣れてきたので、ふと見つけたタイトルに惹かれて借りてきたんですけど、面白いです。
ちょっとまんがのことが書かれていて
それがもう一度日記を始めるきっかけになったのでした。
なので一番に♪
子供の頃は「マンガなんて読んじゃいけません」って育てられたし、今もそういう意識が根付いている。「最近、本読まなくなった。まんがばっかし・・・」と、よく言う。でも、手放せず読み続ける作品の数々を前にすると、私が読みとった感動は活字の本とそう変わらない。どうしてまんがは活字よりも下にランク付けされてしまうのだろう。
マンガが出てきたとき、それはエライ人達によって「低俗な物」と位置づけされてしまったんだって。
善し悪しの区別を論じることが出来る人達から見放されたマンガだけど、一部でずっと指示され続け、出版社の人が「これは売れる!」と思ったんだね。とにかく「マンガでありさえすればいい」という商戦の元、現在1つのメディアに数えられるまでに増え続けた。
どんな作品がいいかどうかでなく、どんな作品が売れるかどうかで育った分野だから、真面目な物もあるけどそうじゃないものも多いわけだ。
絵が伝える情報が大きい分、あまり考えることなく読めてしまうマンガは深く語られることは無かった。
最近になって一部の作品は多くの人に語られ支持されるようになった。けれどもマンガが世界に顔を出すときは読み捨ての雑誌に連載される。雑誌は作品を選ばせてはくれない。出版社から与えられ、読む。作家だって読者だって、また1人の編集者だって、なんだかベルトコンベアーの上。数以外は発展しないのでした。
それで今も、低俗なメディアのままマンガは溢れているのです。
まぁ、表現方法が違うだけで、今じゃ活字の本だってテレビだって似たような状況にあると思うけどな。
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